納がオサムを語る vol.7 「東京への移住後、どのようにしてこの東京のジャズ、そして音楽シーンで、オサム少年の存在を知ってもらえるようになったか」

1988年、留学先のバークリー音大から帰国し、強い野心を持って東京に上京してきたオサム少年でしたが、1989年1月の昭和天皇崩御によって、その出鼻は完全にくじかれ、その野心の行き先にはすっかり暗雲が立ちこめてきました。

帰国からしばらくは、オサム少年がどれほどの極貧であったかは、第6回にお話ししたとおりです。

当時日本はまだバブル経済の最後期、都内のマンションの家賃が極貧のオサム少年には重くのしかかり、家賃を払えば、一ヶ月のギャラのそのほとんどが消え去るという、そんな日々の連続でした。

でもいま振り返ると、当時のそんな駆け出しのオサム少年がギャラ制のお店でもらっていたギャラに金額は、なんと今と同じか、今よりよかった時も多かったんですよね!

言い換えれば、すくなくともこの日本のジャズシーンにおいては、この30年、ミュージシャンのギャラは下がりこそすれ、全く上がってこなかったということです。

いやはや、なんとも厳しいお話ですが、でも一方では、この30年で完全に消え去った職種もあるということを考えれば、まだジャズを演奏しながら生計を立てていられると言うだけでもましなのかともいえます。(音楽で言えば、消え去った代表的な職種というのは、スタジオミュージシャンでしょう。)

ま、それはさておき、ではその東京への移住後、どのようにしてこの東京のジャズ、そして音楽シーンで、オサム少年の存在を知ってもらえるようになったかを、今回はお話ししたいと思います。

香取良彦セッションがスタート

それまで一度も東京でライブ演奏をしたことが無かったオサム少年は(新宿ピットインでの朝の部の出演が一度ありますが、それはカウントしません!)、当然ですが、東京のジャズシーンでは全くの、「無名のむっちゃん」です。誰も知り合いがいませんし、もちろん東京のミュージシャンも、誰も彼のことは知りません。

そんなオサム少年が、自宅のマンションの電話の前で、どれだけ仕事の電話を待っていても、当たり前ですが、電話がかかってくるわけがありません。

まずは、「ここにオサムというベーシストがいるよ。多少、弾けるらしいよ。」ということを、ミュージシャンに知ってもらわなければなりません。

そのためには、とにかくどこか、プロのミュージシャンが演奏している場に行って、1曲でも2曲でも弾かせてもらって、そこで良い印象を残さなければなりません。

が、先にも行ったとおり、オサム少年には、その演奏現場に訪ねて行って、「弾かせてください!」とお願いできるような知り合いは、関東には皆無でした。

そんな時に大きな助けとなったのが、当時のバークリーの仲間でした。

実は、1988年の夏に初めて、バークリーの講師陣が大挙して日本を訪れ、浜松で数日かけてクリニックをするという、「バークリー・イン・ジャパン」という催しが開かれました。

オサム少年は日本へ帰国した直後で、仕事もなく全く暇にしていたので、これ幸いと、そのベース科のブルース・ガーツ先生の通訳として、そのイベントに参加させてもらうことになりました。

もちろん、他の楽器の先生に関しても、それぞれ、現役のバークリーの日本人留学生が、その通訳としてボストンから一緒にやってきていました。

その中に、今は東京で頑張っておられる、ビブラフォンの香取良彦さんやギターの道下和彦さんがおられました。

彼らとは、僕がバークリーにいるときから、様々なセッションで一緒に演奏していました。

また道下さんとは同じアパートに住んでいたこともあり、暇を見つけては二人で練習するというくらいの仲。
さらに言うと、それもこの「納がオサムを語る」で以前に書いたと思いますが、僕がまだジャズを始めたばかりの20歳くらいの頃に彼と出会い、そのときも一緒にしょっちゅう練習していましたし、また僕自身がバークリーへの留学を決めたのも、彼がバークリーに留学するという話を本人から聞いたからでした。

3人ともそんな音楽仲間だったので、「せっかく3人とも日本にいるんだし、だったらツアーでもやろうよ!」ということになり、その1988年の夏、「香取良彦セッション」ということで、日本国内のツアーをやりました。

ちなみにそのときに、一緒に参加してくれたサックス奏者は、当時まだ崩壊前のソ連だったその地から、バークリーに留学していたイゴール・バットマン。

彼はいま、ロシアを代表するジャズサックス奏者となっています。

数年前、モスクワがインターナショナル・ジャズディのホストシティとなったのですが、そのときのコンサートが開催で、彼はすべての統括ディレクター的なポジションを勤め、ハービー・ハンコックやマーカス・ミラーらと共演していました。

たまたま見たそのときの映像の中で演奏するサックス奏者が彼であることを知ったオサム少年はびっくり! そしてちょっぴりショック。「いやはや、あいつも偉くなったもんだなぁ…」って。

話を戻しましょう。

そんなことで、そんなメンバーで日本ツアーをやったのですが、もちろん東京でも何カ所かやりました。

実は香取さんは早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラ出身だったので、そのときのライブの何カ所かには、香取さんを知る、ハイソ関係の方をはじめとする、ジャズ関係の方が数人、見に来られていたようです。

そしてその方々の中に、僕の演奏に興味を持ってくださった方がいたのでした。

そのお一人が守屋純子さんです。彼女もハイソ出身で、香取さんの後輩にあたります。

ちょうどプロとしての活動を始めたばかりで、彼女のオリジナルを演奏するための、ステディなユニットみたいなものを探していらっしゃる時だったようです。

そんなことで、守屋さんからお声かけをいただき、都内のジャズクラブなどの演奏に呼んでもらえるようになりました。それ以外にも、香取セッションの演奏を聴いて、僕のベースを気に入ってくれた人から、ポツポツを仕事の電話をもらえるようになりました。

また全く同じ1988年の夏、これまたバークリーに留学されていた、こちらもビブラフォン奏者ですが、赤松敏弘さんのツアーも、ギターの道下和彦さんと一緒にやりました。

そちらの方でも、日本各地のいろんなミュージシャンやジャズクラブのオーナ、ジャズファンの方々と知り合うことが出来ました。

まだみんな30歳前後という若い頃。

特にオサム少年はアメリカから帰国してすぐということもありましたし、関西から出て、日本各地で演奏するなんて経験も皆無でしたから、日本各地を旅し、その地のライブハウスで演奏することは、彼にとっては本当に新鮮で印象深いものでした。

でも日本のジャズシーンではまだ誰にも知られていないオサム少年、しかも29歳の若造です。

場所によっては、いろいろいやな思いもしたようです。

ある会場では、なんでも東京でしばらくプロをやっていたというドラマーとセッションすることとなったそうな。その人のプレイは、もうただただヨレヨレの一言。もちろん、その辺のアマチュアよりは、なんとなく「ジャズのイキフン!」は出ていますが、オサム少年はバークリーの一戦クラスと切磋琢磨してきたたたき上げです。そのドラマーが全然ダメダメであることはすぐに見抜きました。

でも、そんな地方の呼ばれていって、そこでアフターアワーズのセッションになったわけですから、「おたく、全然ダメだね!」とは、口が裂けても言えません。

いや逆に、多少のお世辞くらいは言わないとということで、「ドラム、良い感じですね。」と低姿勢で、そのドラマーに話しかけたそうです。

すると、その大バカ野郎はすかさず、「おまえ、スイングがどんな感じか、その机を叩いてみろ! 」と言ったとか。

オサム少年は最初、何のことか判らず、とりあえず「トントントントン」と、無機質に4回、机を叩いて、「こんな感じですか?」と。

するとそのヨレヨレドラマーは、くるくる手を回して机を叩きながら、「スイングはこうだよ! だからおまえはスイングしねえんだ!」と。

こんな状況で説教されるとは知らず、あっけにとられたのと、不意打ちを食らったので、オサム少年は一言も反論できず。めちゃくちゃ悔しい思いをしましたそうです。

そのあと、そのお店で酒をかっくらいながら、「お前みたいなヨレヨレのウンコドラマーに、スイングしてないって、言われたないわ、ボケ!」と心の中で叫んだそうです。

また違うお店では、演奏後、客席にいた初老の男性に呼ばれたので、何気なく挨拶がてら、その席に行った言われた一言。

「君、ポール・チェンバース聞いた方が良いよ。」

まさに「はぁ~~~???」です。

「俺かって、チェンバースはしっかり研究してるわい、おっさん!」ですね。

でも28歳にして大人なオサム少年は、「は! それはありがたいお言葉。しっかり勉強しておきます。」と顔で笑って、テーブルの下で中指をたてて、「ファックユ~!」したそうです。

なんせ、アメリカ帰りですからね。

と、まあ、こんな痛い目に何度も会いながらも、ちょっとずつですが、東京でも、特に同世代の仲間に知られていくようになりました。

おそらくですが、オサム少年の、特にアコースティックベースのスタイルは、バークリーにいたということもあるかと思いますが、それ以上に、もともとジョージ・ムラーツやマーク・ジョンソンといった白人系の、いわゆるテクニシャン派が好きだったので、日本の「黒人大好き、ベーシストならボトムにいろ!」という固定観念に縛られたおじさんジャズファンには、オサム少年のようなスタイルは気に入らなかったのでしょう。

ですが、その頃から若い世代には、特に東京在住のミュージシャンの中には、ECM(ドイツのジャズレーベル。パット・メセニーやゲーリー・バートン、キース・ジャレットのアルバムなどを出していたことで有名)系の方もどんどん増えていて、そんな人には、オサム少年のベースは気に入ってもらえたようです。

最初の写真のその頃のツアーの模様です。

オサム少年が初めて買った6弦ベース、しかもフォデラのアンソニージャクソンモデルを、その小さな小さな手で頑張って弾いている様子です。

手前にはビブラフォンの鍵盤が移っていますから、これはきっと香取さんとのツアーの時の写真かと思います。

ではこの、オサム少年が生まれて初めて手にした、フォデラの6弦を購入するに至ったお話をしましょう。

当時、日本に帰ってきたばかりのオサム少年の心の中は、まだバークリー留学当時のまま。

とにかく暇さえあれば練習とセッションをすることに燃えていました。

がしかし、仕事は全然ありません。

仕方なく、やっとこさ知り合った仲間と、ただただレンタルスタジオに集まって、しかも難曲ばかりを練習するという、いわゆるリハーサルバンドを作りました。

メンバーは、サックスに佐藤達哉さん、ギターが竹中俊二さん、ピアノが砂田知宏さん、ドラムスが平山恵勇さんだったと思います。

スタジオは、今は無き、渋谷にあったヤマハ・エピキュラス。

そしてどんな曲をやったかというと、ジョン・スコフィールドの「Trim」、チック・コリアの「Got A Match」は当たり前で、さらには、それより遙かに難しい「Silver Temple」、パット・メセニーの「Better Days Ahead」等々。いやはや、良い練習になりました。

で、ある日スタジオに行くと、竹中さんだったと思うのですが、「オサムさん、近くの楽器屋に、フォデラの6弦が中古で出てましたよ。」と教えてくれるではないですか!

オサム少年にとっては憧れのフォデラ、しかも喉から手が出るほどほしかったフォデラの6弦ですが、極貧の彼にはとても新品で買えるわけがありません。当時でも100万近くしていましたし(今では200万を超えます!)、しかも楽器そのものが、まだ日本ではお目にかかることほとんどまれでした。

その楽器屋さんに、そのフォデラがなぜ中古で出ているのかと尋ねると、なんでも、とある海外アーティストのサポートで来日していたベーシストが持ってきたそのフォデラを、お金ほしさに、そのツアーの終了後、中古での販売を楽器屋に委託したとか。確か45万円位だったと思います。

で、リハーサルの終了後、その楽器屋に一目散で行ったオサム少年は、その楽器を試奏するやいなや、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、一言、「買います!」

いやはや、若いときの勢いというのは怖いですね。向こう見ずと言うか。

今から思えば、そのフォデラは、6弦として本当に初期のモデルで、なんとパッシブでした。

もちろん今も、アンソニージャクソンの楽器はパッシブですが、普通6弦といえば、アクティブです。アクティブでないと、高域と低域が、中域に比べて音痩せして、どうしても弦同士のバランスが悪くなってしまうからです。

でも初めて6弦を、しかもフォデラの6弦を手にしたオサム少年に、そんなことが判ろうはずもありません。しかもアンソニージャクソン・モデルなんだから「悪かろうはずが無い!」ということで、全く迷いもありませんでした。

でも今思い返すと、確かに悪い楽器では無かったように思います。

その後数年に渡って、彼は使用していましたから。

そうそう、先日投稿した、「四方山話・日本ジャスミュージシャン列伝」の日野元彦さんの記事の時に紹介した、「Hip Bone」というアルバムでは、この6弦ベースを弾いているそうです。

ですがそののち、この楽器は彼の元を離れることとなり、あのスーパーテクニシャン・ベーシストの岡田次郎さんが引き取ってくれたそうです。

でも後に岡田さんにこの楽器のことを直接尋ねたら、彼も結局は手放したそうです。

ということで、これが、オサム少年とフォデラとの、運命の出会いです。

そこから今のメインの6弦に至るまでに、6弦が他にもう1本、5弦も、今手元にあるものを除いて、2本買ったそうです。合計で、フォデラばかり6本も買ったことになりますね。

小曽根真さんのツアーに参加

さて話をまたまた戻しましょう。

そんな中、東京で始まった活動の中で、もう一つ、当時のオサム少年にとって重要なツアーがありました。

それは1991年の春から夏にかけて行われた、今や世界を代表するピアニストとなった小曽根真さんの、おそらく初めての日本人だけによる日本国内ツアーです。

その頃小曽根さんは、活動の拠点をボストンにしていたのですが、もう少し日本国内での活動を増やしたいという考えがあったのでしょう。

もちろん、その頃は、デビューアルバムの参加メンバーのゲーリー・バートンとエディ・ゴメスとのツアーをはじめ、アメリカの著名なミュージシャン達と日本ツアーをやってはいましたが、扱いとしては、基本は海外アーティスト。今で言うと、上原ひとみさんのような立場ですね。

そこで、それをもう少し、日本国内での日本人枠での活動もしたいということで、日本人メンバーによる日本国内ツアーとなったようです。

またそのツアーに合わせて出したアルバムも、それまでのアコースティックなジャズから、どちらかというとフュージョン色の強い、エレクトリックなサウンドとなりました。

そんなことで、オサム少年もそのツアーではエレクトリックベースしか弾きませんでした。

実は、オサム少年はバークリー時代にも何度か小曽根さんに誘われてライブやセッションをしたりしていました。
また日本に帰国してからも、当時オープンしてまもない東京ブルーノートに、僕の記憶が正しければ、確か日本人として初めての出演者となる小曽根真さんの、そのトリオのメンバーとして、これまた道下和彦さんと一緒に出演させてもらったりもしました。
が、こんなふうにツアーとしてご一緒させてもらうのは初めてでした。

2枚目の写真はそんなときの、どこかでのライブのあとのセッションの模様かと思います。

が、しかし、写真に写るのは、ピアノを弾く小曽根真さんではなく、ドラムスを叩いています。

これがまた、憎たらしいくらいにうまいんですよね。

世に天才がいるとしたら、彼も間違いなくそのうちの一人でしょう!

そして正面で、サングラスでギターを弾く人は、今回の記事でも登場した道下和彦さんです。

このツアーの頃は、小曽根さんは、それはそれは怖いバンマスでした。

もうリハの最初から最後まで、メンバーは怒られっぱなし。

オサム少年達は、小曽根さんに付いていくので精一杯でした。

だって彼のリズムのタイトさをグルーブ感と言ったら、他のメンバーの誰よりも良いんですから!

そんなピアニストをサポートして、一体どんなベースを弾けというのか?

オサム少年にとっては、「ああ、世界ってこのレベルでないといけないんだな」と痛感させられたツアーだったようです。

そんなこんなを経験しながら、徐々に東京でも知られる存在となっていったわけですが、貧困からのV字回復までにはもうしばらく時間がかかります。

こののち、都内で演奏活動が増えてくると同時に、日本国内を旅するツアーも増えてきました。

当時は、こんな駆け出しの若いジャズミュージシャンでも、結構面白がって、ギャラを切ってでもツアーを受けてくれるような気概のある人が、日本全国にはまだたくさんいました。

といってもそんな大きな額ではありませんから、オサム少年の生活は、極貧からは脱出したとはいえまだまだ低空飛行。

ということで、次回は、その香取良彦さんと、さらに今も何かとご一緒するギターの布川俊樹さんとの珍道中、またジャズ界の大御所である、松本英彦さんや日野元彦さんのバンドに参加したときの話、そして転機となった渡辺貞夫さんのバンドへの参加と、その頃からの人生急上昇についてお話ししたいと思いますので、また次回も是非ご期待ください!

CODA /納浩一 - NEW ALBUM -
納浩一 CODA コーダ

オサム・ワールド、ここに完結!
日本のトップミュージシャンたちが一同に集結した珠玉のアルバム CODA、完成しました。
今回プロデュース及び全曲の作曲・編曲・作詞を納浩一が担当
1998年のソロ作品「三色の虹」を更に純化、進化させた、オサム・ワールドを是非堪能ください!