


「納がオサムを語る」、第6回目です。
(全文はサロンにて公開しています)
バークリーで3年半あまりに渡って、猛烈な勉強と練習に明け暮れたオサム少年も、そのバークリーの卒業を控え、そろそろ身の振り方を決めないといけない時期にさしかかってきました。
1988年6月吉日、オサム少年は無事、バークリーの卒業式に臨むことが出来ました。そのときの卒業証書のプレゼンターはなんとあのデイブ・グルーシン!
何度もグラミー賞を取った、そして僕の大好きなアルバムである、渡辺貞夫さんの「カリフォルニア・シャワー」や「モーニング・アイランド」の音楽ディレクターを担当していた方です。いやほんと、ここ、バークリーに来て良かったと思えた瞬間でした。
写真はそのときの卒業式直後の、バークリーのエントランスでの写真と、その卒業証書そのものです。
いやいや、若いですね!
さて1988年6月に卒業式を終えたオサム少年は、晴れて日本への帰国の途につきました。
翌7月に帰国した彼は、実家の大阪にはほとんどとどまることなく、8月には東京に移りました。
でも知り合いもいなければ、頼る人もいません、まさに孤軍奮闘です。
親には、最後のすねかじりということで、100万円ほど借りて東京に出てきたものの、仕事など全くなかったオサム少年には、家賃等の出費が重くのしかかり、その年の暮れには、ついにそのお金も底着いたことをよく覚えています。
なぜよく覚えているかというと、それは東京に出てから初めての年の暮れ、明けて新年早々に実家に帰ろうと思ったのですが、自分の銀行口座に残っているお金はなんと1万円を切っているではありませんか! これでは新幹線にすら乗れません。ですが幸い、その1988年12月31日に、なんとジャムセッションのホストの仕事が入り、それで8千円ほどもらったオサム少年は、そのギャラと、口座に残ったお金とを合わせて、なんとか新幹線の自由席に乗ることが出来たという次第です。
そうそう、そんなときによくに耳にしてアドバイスがあります。
それは「東京では絶対、関西出身とバークリー出身を言うことはNG!」というものです。
関西弁というのは、その強いイントネーションと、さらにはそれを喋る人たちの強い個性で、かなり目立つことは、もう皆さんよくご存じかと思います。
当時は関東圏ではそこに住みつき、そこで底辺からのし上がろうとしている人にとっては、方言がどれほどNGであるか、それがたとえ、元々この国の中心であった関西の言葉であろうと、だめなんだということを思い知らされました。
もう一方の、バークリー出身というのも、今から思えば驚きですね。
こちらの方のその原因というのは、おそらくは嫉妬や妬みがその中心ではないかと思います。
あるいは、バークリー帰りを宣伝文句にするミュージシャンの中には、それしか宣伝するネタのない、腕のないミュージシャンも多かったようですが、そういった事情もあるのかもしれません。「バークリー帰りなんていうから一緒に演ってみたら、全然ダメ!」みたいな。
今から思えば隔世の感がありますね。今や、石を投げればバークリー帰りにあたるくらい。「えっ、あの人、バークリー出てないの? てっきりそうだと思ってた!」くらいの勢いで、バークリーの出身者がいます。そんな現状から思えば、ほんと、不思議ですね。
ということで、二重のハンディを背負ったオサム少年の苦労は、ご想像に任せます。
さて話を戻しましょう。
全く仕事がなかったオサム少年ですが、「1曲、弾かせてください! お願いします!」的な種まきの効果がやっと現れだしたのが1988年も終わろうかというようなときだったのですが、明けて1989年1月、そんなオサム少年の東京進出の出鼻をくじいたのが、昭和天皇の崩御です。
お上からの指示で、歌舞音曲の類いは全面NGですから、ジャズのライブなんてもってのほか。すべてのライブやコンサートは自粛という状況でした。
年が明けてから、ずっとご容態が悪いということで、そんな状況が何日も続きましたから、音楽関係者はたまったもんじゃありません。
ま、そんなことで、やっとそこそこ入ってきていた仕事はすべてキャンセル。
泣きっ面に蜂とはまさにこのときのオサム少年の事ですね。
ということで、次回はそんな貧乏ミュージシャンだったオサム少年が、V字上昇する、そんなサクセスストリーの始まりについて、お話ししたいと思います!
どうぞお楽しみに。