
前回から相当間隔が開いてしまいましたが、「納がオサムを語る」の第8回です。
第7回では、1988年にアメリカ留学から帰ってきたオサム少年、帰国直後に東京に上京してきたのですが、知り合いは誰もおらず、そんなことから全く仕事がないという極貧時代の辺りまでをお話しました。
でも、このコロナのおかげで、おそらくそのときと匹敵するくらい、今のオサム少年も仕事がないようですねぇ。
まさかこんな状況が、彼の人生で再びやってくるとは、彼も予測していなかったでしょう。
まあ、あの頃とは違って、彼にも、それなりの気持ちや状況に余裕があるようなのが幸いですが、でもあの頃ほど、「負けへんでぇ!」というようなモチベーションが湧いてきていないように見受けられるのが、ちょっと心配です。
ま、それはさておき、ではその1990年辺りからお話を始めたいと思います。
前回もお話ししたとおり、1991年に小曽根真さんの日本ツアーに参加させてもらったりと、徐々にですが、その頃の彼は、活動の場も徐々に増えていっていたようです。
その頃、一番精力的に活動していたバンドが、ビブラフォン奏者の香取良彦さんをリーダーとし、ギターの布川俊樹さんとの3人からなる、「カトリオ」です。(「ちからとりお」ではなく、「かとりお」です、念のため)
オサム少年と香取さんはバークリーの同期で、布川さんとは1990年から、彼の率いるValisというバンドの参加していたので、そんなことで意気投合し、「何かおもしろい音楽を作って、日本中を回ろう!」ということで出来たユニットです。
このユニットはつい最近も、久しぶりに演奏活動を再開していますので、もうかれこれ30年くらい活動しているユニットですが、そんな長期にわたる活動にも関わらず、一枚もCDを出していません。
不思議ですね。
ま、それは今後に期待するとして、最初のツアーは1990年の秋でした。
それから数えること、もう十回を超えるような回数の全国行脚を行い、北は網走から、南は波照間島までと、本当に日本中を回りました。
当時はこんな駆け出しの若者バンドなのに、各地のジャズ喫茶やライブハウスのマスターは、かなり興味を示してくれて、その上ちゃんとギャラ制で演奏させてくれるというありがたい時代。
まあ、まだバブルの最晩期だったので、地方もまだ潤っていたのでしょう。
このユニットの珍道中は、語り出すと、もう何時間でも喋ってられるような、ハプニングの連続!
ほんの少しだけ紹介しておくと、
●山陰のとあるライブハウスでは、お店に入るなり「おまえら、もう今日は演奏、いらんから帰れ!」と。
なんでも、ブッキングの際にちょっとした行き違いが、香取さんとマスターの間で合ったらしいのですが、そんなことを知らない他のメンバーは、そのあまりの雰囲気の悪さに、生涯忘れ得ぬ一夜となりました。
もちろん、マスターは全く集客は頑張ってくれていなかったので、場内はガラガラ!
そんな極悪な雰囲気なのに、演奏後、楽器を車に積む段になって、布川さんがギターアンプを運んでいるときに、玄関の扉のガラスにアンプをぶつけて、割ってしまうという事態が起こりました。
もちろん、弁償したことは言うまでもありませんが、雀の涙ほどのギャラからガラス代が引かれるわけですから、メンバーの意気消沈具合と言ったら!
泣きっ面に蜂とは、まさにこの夜のことですね。
●宮崎のとあるライブハウスでは、布川さんがマスターから、「お前のギターには人生が見えねぇ!」と説教。
昔はこうやって若手を説教してくれる、心温かいファック親父が日本中にはたくさんいました。
オサム少年も、他の店で、「君、少しはポール・チェンバース聞いた方が良いよ!」との苦言を受けたようです。
「ほっとけ!」ですよね! もちろん彼は怒りをこらえて、「はい、ありがとうございます。」って答えたようですが。
●空港のカウンターでは、分解してコンパクトにパックされたビブラフォン(香取さん独自の考案ですが、それでも簡単な引っ越し荷物くらいはある!)にエレクトリックベースにギター、さらに各自のスーツケースという、3人で飛行機に乗るには到底考えられないような荷物を帯同しながら、「超過料金を格安してください。」と。だって、そんな経費は可能な限り、抑えたいですからねぇ。
すったもんだの押し問答の挙げ句、最後に香取さんがカウンターの女性に、「じゃあ上司を呼んできてください!」と恫喝する一幕。これって、いまなら、モンスタークレーマーですよね。
●かたや、石垣港から波照間島へは、その膨大な機材を持って船に。乗船の時の大変さと言ったらありません!
その船って結構小さいんですよね。それで大海原に出るんですから、オサム少年は死を覚悟したそうです。
写真はそんな頃の3人のショット。いやいや、みんな若いですね!
後ろの建物には、「奄美ハブセンター」とありますから、奄美大島でのコンサートの時ですね。
こうやって見ると、大学生3人の卒業旅行的なノリですね。
これでお金がもらえるんだから、ほんと、良い時代でした。
ま、こんな珍道中の連続でしたが、本当に楽しい思い出です。
またコロナが収まったら、このユニットでライブをしますので、もっとこの珍道中の話を聞きたいという方は、是非ライブにお越しくださいね!
さて、そんな活動をしながら、オサム少年は、いわゆる日本の代表的なジャズミュージシャンの方々からのお誘いをいただく機会も増えてきました。
一つは、写真にもある日野元彦さんのユニット、「Sailing Stone」への参加。
メンバーは(敬称略)、
Tp:五十嵐一生 Ts:佐藤達哉 Gt:道下和彦 Kbd:大石学
アルバムでは、これにアルトサックスの山田穣さんが入っています。
この辺りの経緯に関しては、サロンの四方山コラムでの、「日本人ジャズミュージシャン列伝」の「日野元彦」のところで詳しく触れていますが、このパンフレットは、そのメンバーで94年に韓国ツアーした時のものです。
トコさんには本当にお世話になったようです。
アレンジャーとしても、3枚のアルバムに関わらせていただいたそうです。、
でもトコさんは、60歳もずっと手前という若さで、がんで亡くなられました。あまりに若いですよね。本当に残念です。トコさんが生きていたら、まだまだ精力的に音楽を作っていただろうに。
そのトコさんとのコラボレーションがきっかけで、オサム少年はお兄さんの日野皓正さんともご一緒させていただく機会持ちました。
お二人とも、本当に怖い存在で、サポートするミュージシャンの演奏が気に入らないときは、朝の4時くらいまで説教されることもしばしば。もちろんオサム少年も経験済みです。
でもお二人とも、普段は本当に最高に熱く音楽を語る素晴らしい音楽家で、特にトコさんは若いミュージシャン達と盛り上がるのが大好き。韓国ツアーの時も、夜が開けるまで、メンバーの部屋で飲み明かしたようです。本当に素敵な思い出ですね。
時を同じくして、テナーサックスの大御所、松本英彦さんのユニットにも参加させてもらったようです。
こちらの方はYouTubeに映像がありますので、ご興味のある方は是非そちらを見てみてください。
1991年日比谷の野外音楽堂で行われた、Tumura Summer Jazz フェスティバルの映像です。
メンバーは、
Gt:古川望 Kbd:青柳誠 Dr:菅沼孝三 Per:横山達治
当時、松本さんもう本当に雲の上のようなレジェンドなミュージシャンだったですが、実に腰の低い方で、穏やか、温厚。いつもニコニコしながら楽しそうに演奏されるという、神様のような方でした。
でも耳は本当に良くて、彼らの演奏の内容もしっかり聞き取っていらっしゃいました。
でもメンバーはごらんお通り、当時からもう日本の一線で活躍しているような若手ばっかりですから、本当に楽しかったでようですね。
松本さんも、惜しまれながら、早くにお亡くなりになってしまいました。
本当はもっともっと、日本のジャズシーンを引っ張っていってほしかった、そんな方ですね。
さてもう一つ、この時期の活動で特筆すべきは、「ジャズ維新」という、キングレコードが企画したプロジェクトです。
これは当時活躍してし始めていた若手を集めて、プロジェクトに参加しているミュージシャンがやっているそれぞれのユニットのアルバムや、またそのミュージシャンで様々な組み合わせを企画して、そのセッション的なアルバムを出すというものでした。
さて、写真はそのときの参加ミュージシャンですが、皆さん、それぞれの名前、判りますか?
ちなみな名前だけ挙げておくと(敬称略)、
Tp:原朋直、松島啓之 Sax:山田穣、多田誠司、三木俊雄、安保徹 Tb:中川英二郎
Gt:岡安芳明 P:クリヤ・マコト、椎名豊、井上祐一 B:島友行 Dr:モンキー小林
です。
このメンバーが全員参加したセッション、「日本ジャズ維新ジャム」が録音されたのが、1993年12月27日。この写真はそのときのものと思います。
もちろん、このメンバー以外にも多くの若手が参加したこのプロジェクトですが、この企画を境に、日本のジャズシーンに新しいムーブメントが起こったように思います。
オサム少年はクリヤ・マコトさんの率いる「X-Bar ユニット」を中心に、このプロジェクトに参加していました。
そちらのメンバーは、
P:クリヤ・マコト Tp:原朋直 As:緑川英徳 Dr:大坂昌彦
です。
このユニットでも、本当に全国を回ったようです。こちらも楽しかったんでしょうね。
このあとオサム少年とクリヤさんは、現在のアコースティック・ウェザーリポートまで続く、30年のおつきになりましたし、また大坂さんとはEQというユニット(Sax:小池修 P:青柳誠 敬称略)で、8枚のアルバムを出しています。
それ以外との方々とも、いろんな現場でご一緒しているようで、その意味でも、この企画は、本当にある一時期の日本のジャズシーンを切り取った、画期的な企画だったように思います。
その意味では、今思い返せば、日本のジャズが盛り上がった、最後の瞬間だったのかもしれませんね。
オサム少年にとってクリヤさんとの出会いは本当に衝撃的なものでしたが、クリヤさんもちょうど、オサム少年と時を同じくしてアメリカ留学から帰国した来たところで、二人とも本当に仕事がありませんでした。
そんなわけで、オサム少年がたまたま新宿で演奏していたカフェバーで、デュオの仕事があったので、そこにクリヤさんをお誘いして、よく二人で演奏していたようです。
そこでのお話。
演奏が終わって、二人がピアノの周りで休憩していると、若い男性のお客さんがそちらにやってくるではありませんか。
オサム少年たちは、「良い演奏でした!」といって、チップでもくれるのかな(アメリカでは、ホテルなどで演奏しているときに、そうやってチップをくれることが結構あるので)と思いきや、彼は開口一番、「もう少し静かに演奏してくれる? うるさくてしゃべれない!」と。
そりゃそうですよね、アメリカから帰国したてのクリヤさんとオサム少年です、頭の中にはもうアメリカ仕込みのとがったサウンドが渦巻いているわけです。
その二人のデュオですから、そんなちんたらした演奏になるはずがありません。
きっともう、ガンガンに盛り上がっていたのでしょう。
まあ、その男性客の気持ちも、今ならわかりますが、そのときはねぇ。
いや、いまならちんたら戦争するって意味ではありませんよ。今でも二人が揃えば、それはそれは熱い演奏を繰り広げて切れます。
ま、とにかく、こんな風に、オサム少年はいろんなところで、様々な痛い目に遭ってきたわけです。
そうそう、もう一枚の写真は、クリヤさんと一緒に、オサム少年がインドのジャズフェスティバル、「Jazz Yatora」に出演したときのもの。
メンバーは、
Sax :緑川秀徳 Dr :斉藤純
こちらのツアーも、もうおもしろいことや驚愕するような事件の連続でした。
ことわざで、「インド人もびっくり!」というのがありますよね。
インドに行ってみて判ったそうですが、「インド人でもびっくりするようなことは、世界中の誰にとってもびっくりするようなこと」のようです。
それくらい、オサム少年にとっての初インドは、強烈なインパクトがあったのでした。
例えば、会場からホテルに戻るオサム少年たちのバスがエンストしたそうです。
「どれどれ」と、メンバー一同、運転席に様子を見に行ったら、なんと、運転席にある、バスのギアの下の鉄板が腐って落ちてしまっていて、そこには地面が丸見え!
「よくもまあ、こんなおんぼろバスがまだ走っているもんだな!」と思っていたら、そのインド人の運転手が、「すまんが君たち、バスから降りてバスを押してくれ。いまから押し掛けする!」と。
「おいおい、マジか? バスなんて押し掛け出来るんか?」と半信半疑でしたが、エンジンがかからないことにはホテルに帰ることが出来ないので、メンバー一同、渋々バス降りて、バスを押すことに。
また悪いことに、そのバスが止まっていたところの地面が、雨かなんかでぬれていて、でぐしょぐしょの状態!(基本、当時のデリーは、排水などのインフラがさっぱりで、街中に水たまりがありました。もちろん、道路も舗装されていないところだらけ!)
せっかくのステージ衣装が、バスがはねる泥水でぐしょぐしょになったのですが、それでもバスのエンジンはなんとかかかりました。いやしかし、バスって押し掛けできるもんなんですね。
とにかく、バスの押し掛けなんて、オサム少年の人生でも最初で最後のことです。
あるいはまたこんなことも。
そのジャズフェスはインド中で開催されるので、バスを押し掛けしたデリーから、次はマドラスに移動。
そこはなかなか素敵なリゾートホテルの庭園での演奏だったので、オサム少年たちもちょっと気分を良くしていました。
で、さてリハーサルということになってステージに行ったら、なんとピアノがないではありませんか!
クリヤさんが、「ピアノは?」ってスタッフに聞いたら、「そんなものはない…」と素っ気ない返事。
「いやいや、俺たち、ピアニストがリーダーのバンドやで!
ピアノなしで、どうやって演奏すんねん!」って、関西弁でまくし立てても、事態は一向に変わらず。
確かに、彼らにしたら、「ないものはない! ピアノのことなど聞いていない!」ってことです。
もうクリヤさんはカンカンです。
そこで気の長いオサム少年が、「まあまあクリヤさん、郷に入れば郷に従え、って言うじゃないですか。そこにあるYAMAHAのシンセでなんとかやりましょう。」と提案。
そんなことで、せっかく用意したシーリアスなアコースティックジャズの曲は全部止めて、急遽、ド・ファンクセッションとなりました。
いやいや、このメンバーで良かったですね!
でも、この後参加する渡辺貞夫さんのバンドでも、オサム少年は嫌というほど経験するのですが、海外での演奏ではこんなことは当たり前というのは、オサム少年もクリヤさんも、またバークリーの先輩の、ドラマーの斉藤純さんの百も承知だったのが良かったですね。
人生、何事も経験ということを、改めて感じたオサム少年でした。
そんなこんなの、日本もとより、海外での様々な経験を経ながら、オサム少年は徐々にその活躍の場を広げていった、そんな1990年前半でした。
そしてこの後、1996年に渡辺貞夫さんのグループに参加したことをきっかけに、オサム少年の人生は大きく変わっていきますが、その辺りのお話は次回に取っておこうと思います。
ということで、次回もお楽しみに!