
サロンの「インタビューコーナー」の新企画、僕がこれまでにジャズライフ誌などで、海外の著名なベーシストに行ったインタビューや対談の、その全て文字に起こしてサロンに再投稿するというものですが、その第2回目は、1997年10月号のジャズライフ誌でのビクター・ベイリーとの対談です。
ビクター・ベイリーといえば、ジャコ・パストリアスが抜けた後、そのあとを引き継いでウェザー・リポートに参加したことで、一躍ジャズシーンでの大活躍をスタートさせたベーシストですね。
もちろんベーシスト列伝で取り上げても良いような、素晴らしいベーシストです。
1960年生まれということで、まさに僕と同じ歳なんですが、本当に残念なことに2016年、若干56歳という若さでこの世を去ってしまいました。
実はこのインタビューの時も、そのインタビューの後の雑談のときに、彼自身の口から、長年患っている病気の話になったことをよく覚えています。
そのときも、松葉杖をついてインタビュー会場に現れたのですが、なんでも遺伝性の、体中の筋肉が萎縮していってしまう病気だそうで、彼の兄弟もそれで亡くなったというようなことで、「僕も実際、あと何年生きられるかわからない」というので、「まさか」と思ったのですが、このインタビューから19年後に亡くなってしまいました。
本当に残念なことです。
素晴らしいグルーブとテクニック持つベーシストですが、ボーカルもご機嫌。
YouTubeには、僕もこのサロンで取り上げたジャコの曲、「Continuum」に自ら歌詞を付け、ベースとユニゾンで唄ったりしていますね。
ベースを弾くだけでも大変なのに、唄まで一緒に演奏してしまうとは!
また、ジョン・コルトレーンの曲、「Giant Steps」でのコルトレーンのソロを完全にコピーし、それをベースで弾くなんていう動画もあります。
とにかく若い頃に猛烈に練習をしたというのが、そんな動画からもよく判りますね。
実は彼もバークリー音楽大学の卒業生で、同じ歳ということもあり、一方的ですが、なんだかとても親近感を感じていたベーシストでした。
さて、ではそのインタビューに進みましょう。
○楽器のこと
納(以下O):実は僕はあなたのソロアルバム「Bottoms Up」、大好きなんですよ!
ビクター(以下B):僕もこういうCDをもっと作りたいんだよ。
僕の本当のプレイを聴くことが出来るのは、これ1枚だからね。
これは作曲やアレンジまで、全て自分でやった。他のアルバムではいつもサポート役だからね。
O:僕自身のリーダーアルバム、「三色の虹」を作る上で、凄く参考にさせてもらいました。
B:へぇ、そうなんだ!
そんな風に言われると、自分が凄く歳を取ったような気がするね。
僕も昔、ジャコ・パストリアス、スタンリー・クラーク、ラリー・グラハムなんかを聴いて、よく勉強していたからね。そんな僕が君の勉強の参考になるなんて、僕も出世したってことかな!
O:そのアルバムは1989年に作られていますが、そのときに使用していたベースは、今回のライブ(1997年東京ブルーノートでの、レニー・ホワイト・プロジェクト)で使用しているベースと同じものですね? ペンサ・サーのベースですよね?
B:そうなんだ。これは日野皓正の息子、マサ・ヒノが作った楽器。
彼は素晴らしいベースビルダーで、僕は9年前から、これ1台しか使っていない。女性と同じで、いったん惚れたらそれ一筋さ!
レコーディングで人から頼まれたときには、5弦や6弦ベースと弾くこともあるけれど、このベースが僕のサウンド・アイデンティティーになっているので、他の楽器はあまり使いたくないんだ。
O:この楽器、日本ではなかなか手に入らないんですよね。
B:ほんと? じゃあ、アメリカで仕入れてきて、日本で売ろうかな?
O:それは良いかもしれませんね! これってオーダーメイドですか?
B:いや、NYにあるルーディーズという、ペンサ・サー専門店で買った。これはその店のショーウィンドウに2年近く飾ってあったものなんだ。
アンプを探しに行ったときに、ちょっと弾かせてもらったのがきっかけ。
僕はジャズベース・スタイルのベースが好きなんだ。で、5分くらい弾いたらもうすっかり気に入って、その場で手付金を払ってすぐ買ってしまった。
最近はファンシーで多機能なベースが流行っているけど、僕はこういうシンプルなベースが好きなんだ。サウンドは自分で作る! 自分の頭の中に響いているサウンドを再現するには、こういったシンプルなベースが一番ぴったりくるんだよ。
O:他にもペンサ・サーを持っているんですか?
B:僕のフレットレスもそう。今はペンサと言うんだけど、どのベースも例外なく良いね!
ペンサは小さな会社だから、いろいろな点を改良するにも小回りが効くんだよ。
それに製作者のマサ自身がベースを弾くから、ベーシストが何をもとめているのかもよく知っている。
O:ピックアップは何をマウントしていますか?
B:僕のは全てEMG。
O:エフェクターは使ってますか?
B:ほとんど使わない。ベース本体だけでも十分にいろんなサウンドを作ることが出来るから。
エフェクターを使うこと自体は悪いことだとは思わないけど、僕は演奏手法を工夫することで、様々なサウンドをクリエイトしたいと思っている。
○渡辺貞夫、ジャコ・パストリアス、ウェザー・リポート参加について
O:僕はいま、渡辺貞夫さんのバンドに参加しているんですが、あなたも貞夫さんとは何度も共演されていますよね?
B:サダオと初めて一緒に演奏したのは、僕が確か18か19歳の時だったんじゃないかな。
たしか1979年だったと思うんだけれど、日本に行ってサダオと一緒にプレイした。
どうしてそのことを覚えているかというと、NYに出てきたばかりの、全くの新人だった僕にサダオは、「君は1年したら間違いなく大成功するよ!」って励ましてくれたんだ。
そのころのベーシストはみんな、マーカス・ミラーみたいにプレイしていた。
もちろんマーカスは素晴らしいベーシストさ。だけど僕は流行に流されることなく、自分のサウンドを大切にしようと心がけていた。
当時はギグに呼ばれてもよく、「マーカスみたいに弾いてくれ」っていわれてものさ。
でも僕は、「それは出来ない。僕はビクター・ベイリーだ。そんなにマーカスのサウンドが欲しければ、マーカスを呼べよ!」ってね。
マーカス全盛期にあって、無名の自分のサウンドを守り続けることは容易じゃ無かった。
でもサダオはそんな僕の個性を認めてくれた。それが凄くうれしくてね。
でもその1年後に、サダオの言葉が本当になった。ウェザー・リポートのメンバーになったんだからね!
O:ジャコ・パストリアスの後任としてウェザーに入ることになった時、プレッシャーは感じませんでしたか?
B:いや、感じなかった。自分を信頼していたから。
僕は16歳の頃から、「ジャコの後に、必ずウェザーでプレイする!」ってみんなに宣言していたんだ。もちろん根拠なんて何にもなかった。
でも「必ず出来る!」と自分の言い聞かせて、それを目標に努力したんだ。
だからそれが現実になったときも、いつかそういうときがやって来ると信じていたから、別に驚かなかった。
ジャコはかつてこの世に存在した最高のベーシストだ。僕にとってはとても手が届かない、遙か彼方の存在だ。だからジャコになろうなんて思ったら、それこそウェザーでなんかプレイできなかったけれど、「僕は僕だ! 僕の信じるサウンドを思いっきりプレイしよう!」と心に決めていたから、プレッシャーは感じなかった。
自分のプレイを気に入ってもらえないのなら、それはそれで仕方がない。ベストを尽くすだけだと。
でも僕がベースを始めてから、ギグが途絶えたことは一度も無かった。それはつまり、僕のありのままのサウンドを認めてくれる人が、誰かしら、常にいたということ。
そういうことも自信になっていたと思うよ。
○ドラマーのついて、ウェザー加入について
O:ベース・プレーヤーにとって、どのドラマーとプレイするかというのは非常に重要なポイントかと思うんですが、あなたの場合、一番息がぴったりと合うのは、やはりオマー・ハキムですか?
B:うん、間違いなく最もプレイしやすいドラマーの一人だね
僕とオマーの間には、以心伝心というか、不思議な繋がりがあるんだ。
タイム、テンポ、フィーリングなど、いちいち頭で考えなくても、お互いのプレイに身体が反応する。音楽のスタイルに関係なく、ピタッと一致するんだ。
レニー・ホワイトも、オマーとは全く別のタイプのドラマーだけれど、素晴らしい!
オマーとは、タイトで緊張感のあるビシッとしたプレイが多いけれど、レニーのドラムスは、もっとフリーでルーズだから、プレイヤーとしての自由度が大きい。それも凄く楽しい。
それからデニス・チェンバース。
この3人は、いつどこでプレイをしても、文句なしに最高だね。
どんな音楽をプレイしても本当に高いレベルに行き着ける。
もちろんオマーとは長い間一緒にやっているし、親友だし、気心も知れている。ギグを頼まれたら、一番最初に声を掛けるのはもちろん、オマーだよ。
一緒にツアーに行くのも楽しいしね。
O:彼とは小さい頃から知り合いだったのですか?
B:いや、オマーはNYで生まれ育ったんだけれど、僕はフィラデルフィア出身。
ウェザーに入るまでは、ほとんど面識は無かった。
O:あなた自身は、どんなきっかけでNYに?
B:バークリー音楽大学で勉強していたとき、南アフリカ出身のトランペッター、ヒュー・マサケラのギグに呼ばれたのがきっかけ。彼がNYを拠点に活動していたので、僕はボストンのアパートを引き払い、所持金100ドルだけで、一度も住んだことのないNYに出てきたんだ。
最初は1泊14ドルのYMCAに泊まっていた。
お金がなくなると、週末に運良くギグが入るっていう、そんな感じで食いつないで数ヶ月過ごしていた。今から考えると、我ながらずいぶん無謀だったなぁと思うけれど、NYでの自分の成功を疑ったことは一度もなかった。
オマーと出会ったのもその頃のこと。
初期のGRPのギタリスト、ボビー・ブルームの「クリーン・スウィープ」のレコーディングに参加したとき、初めて彼とプレイした。
そのあと、南アフリカ出身の女性シンガー、ミリアム・マケバのギグも一緒にやった。
ある日、そのセカンド・ショーが終わると、オマーが、「ジャコとピーター・アースキンがウェザーをやめたらしいぞ!」って教えてくれた。僕が、「わ! ウェザーでやってみたいな!」っていうと、「じゃあ、一緒にザヴィヌルにデモテープを送ってみよう!」といって、ザヴィヌルの住所を教えてくれたんだ。
で、デモテープを送ったところ、ザヴィヌルが二人を気に入ってくれたってわけ。
○マドンナのツアーに関して
O:なるほど。そしてウェザー以降も、オマーとあなたコンビは、ニューヨーク・サウンドを代表するリズム・セクションとして活躍するわけですが、コンテンポラリー・ジャズの分野だけでなく、最近ではマドンナのツアー・バンドも一緒にやっていますよね? 彼女はどんな経緯であなた方を自分のバンドに呼んだんですか?
B:頭が良いんだよ。彼女は自分がどういう人間か、正確に把握している。自分がずば抜けたダンサーでもシンガーでもないことをよく知っているんだよ。
だから自分の周りを、いつも超一流の人間で固めている。
最高のエンジニア、プロデューサー、ステージ・デザイナー、ファッション・デザイナー等々。
そして可能な限り最高レヴェルのミュージシャンを集めたバンド。
だから彼女の音楽は結果的にものすごくレヴェルが高くなる。
オマーに僕に、パーカッションのルイス・コンテ。このメンバーなら凄いグルーブになるわけだよ。
彼女のショーを見に来る人たちは、たとえ僕らを知らなくても、身体が自然に動き出すのを止められなくなってしまう。彼女はそれをよく知っているわけだ。
僕らが的確なグルーブを刻めば、ダンサーが盛り上がり、証明が煌めいてエキサイティングなステージになるからね。
彼女にはそれを実現できるだけの金がある。なにしろ一晩で300万ドル稼ぐんだから、凄いよ!
O:ギャラももちろん、たくさん払ってくれましたか?
B:まあね!
おかげでいまはギャラのことを心配することなく、本当に好きな仕事に専念出来る。
半年間、他人のためにプレイしたんだから、当分は思いっきり、自分のプレイをエンジョイしたいね!
とまあ、こんなインタビューだったようです。
実は、これは当時、オフレコだったですが、このインタビューか終わった後、このマドンナツアーに関して本人の口からこんな驚きの告白がありました。
もう23年も前の話ですから、ばらしても大丈夫ですよね?
このマドンナツアー、実はステージ上では、当て振りだったそうです。
そう、パクパクですね。実際はステージ上では演奏せず、録音された音源が流れていたそうです。
本人曰く、「これだけの凄いミュージシャンを集めて、当て振りはないよね! 信じられない!
でも彼女自身の唄の問題や、ダンサーの動きなどを考えれば、それも仕方ないかな。もちろん、事前の録音も、僕たちがやってけどね。
でもこのワンツアーのギャラで、NYを離れて、ナッシュビルに家を買うことが出来たんだ。身体のことを考えたら、もうNYに住んでいることはしんどいから。」と。
そのとき僕は、「そうかぁ、マドンナのツアーを半年やれば、アメリカでは家が買えるんや!」と、強烈に感じたことが忘れられません。
日本では、さすが半年で家が買えるほど稼がせてくれるポップス系アーティストはいませんからねぇ。
ましてやジャズをやっていたら…、なんてマジで考えてしまいました。
当時の僕は本当に稼ぎのなかった頃でしたから。
でも今のこのコロナ禍の現状よりは、収入は多かったかも?
ま、それはさておき、楽しんでいただけましたか?
彼のインタビューをこうやって改めて呼んでみると、なんか僕と同じようなことを考えていたんだなと思います。
金はないけれど、なぜか自信だけはあってNYに出てきた辺り(僕は東京)や、自分自身のプレイスタイルを信じて、それを出せばきっと誰かに認められると思っていた辺り、そして絶対に誰々風にはなりたくないという辺り。
よーくわかります!
でもアメリカでも、「マーカスみたいに弾いてくれ」というような要求があったというのも、おもしろいですね。
ということで、次回のインタビューもお楽しみに。
次回のゲストはリンカーン・ゴーイングです。